「何かである」より、「何しにきた」のか。
不安になる時。
先が見えないって感じた時。
そういう時は、だいたい「答え」とか、「どうしたらいい」とか、答えを欲しがってるのかもしれない。
いくらここにない「答え」らしきものを聞いたところで、自分の心が訴える本音を聞いてあげなければ、不安がやむことはない。
だって気付いて欲しくてアラームをだしているんだから。
みえないものに対して、既にあるものや答えに見えることを当てはめるのは簡単。
でも、それっぽいものに自分をあわせたところで、それって本当にやりたいこと?
「わたしは○○だ」
「あなたは○○です」
一時的には、それも安心するのかもしれない。
でも、それだけで自分をあらわせる?
○○であろうとすることで、削ってしまっている自分の可能性はないだろうか。
すでにあるものにあわせようとするな。
自分そのままで存在する。
ブロガーだったら、普通こう。
youtuberだったら、普通こう。
デザイナーだったら、普通こう。
でも、わたし、だったら?
わたしが最大限楽しい形は?
肩書きは便利だ。
便利だけど、可能性を潰す無意識に押しつぶされないことが大事。
「わたし」をあらわすための手段。
その手段は、その時々によってたくさんあるはず。
歌を歌う。
言葉を紡ぐ。
動画にする。
イベントを開く。
食事をつくる。
手段を通して、この世界で自分がやりたいことは?
手段を通して、この世界で自分が表現したいことは?
この世界に、今の地球に、今の自分で生まれてきた意味。
今あるものでしっくりこないのなら、もしかしたら、今はまだない新しいものを生み出す役割なのかもしれない。
ないのなら、つくればいい。
自分の心が躍ること。
何度も繰り返し言ってしまうこと。
またここに戻ってきた、って感じること。
魂が求めてることに、正直に。
いつも、すぐ忘れてしまうものだけど、心は忘れない。
いろんな遊び方で、「いまこの世界に、わたしがやりにきたこと」を。
世界にあらわしていこう。