明け渡した力を、とりもどせ。
この1週間。
ズレたことをきっかけにエネルギーの総復習。
自分の中心に戻ってズレて。
そしてまたもどる。
中心意識にもどる時の感覚は、木の幹の中のような安心感と、静けさ。
そしてドラクエをプレイしてる自分を見てる、て感じのイメージ。
この3日、イベントを含め、セッション5連発だったのだけど、やはり面白いことに、同時多発的に繋がったテーマが見えてきた。
最初に共通してあらわれたのは、怒り。
色んな目の前の出来事、セッションで浮き上がる感情。
結局、やっぱり、分断を回復すること。
これまでの社会。
これまでの人生。
そんななかで、いろんな場面で、自分の力を何かに明け渡してきた。
自分にはそんな才能はない。
自分には立派なことはできない。
表現なんて、恥ずかしい。
「アート、表現」というものを取り囲む、表現すること以外の何かによって、
つくるもの、つくらぬもの
表現するもの、表現しないもの
うみだすもの、うみださないもの
がわけられていった。
そうやって、一部の人に聖域化された『アート』はとてもハードルの高いものになった。
もちろん、一流のしごとは素晴らしいし、価値がある。
でも、聖域化された結果、生きることのすぐそばにあった表現活動は、遠い存在になった。
「やっても、しかたない」
明け渡した先にあったのは、自分の命の根っこでくすぶる、爆発するような生命エネルギー。マグマ。創造性。うみだす力。リズム。やりたい。遊びたい。
うずうずするような欲求。
その反対に、やらせてあげない、出させない。認めない。感じない。うみださない。
生み出せないという思い込み。
相反する強烈なエネルギーの対立。怒り。
本当は、
古くから、
そして小さな時に等しくみんなが当たり前に遊んでいたこと。
◇◇◇
ほんとはみんな答えを知っている。
元に戻るだけ。
だから、
「持っているものが」
「持っていないものに」対して教える
みたいな構図は、今のわたしはほんとにわくわくしない。
むしろ、分断を感じてしまったので、その世界、わたしはわくわくしないんよ。
って思った。
「プロなの?アマなの?」
1秒で変わる世界において、この問いはもう意味をなさないと、ひしひしと感じるから。
「見てなさい、教えてあげる」
じゃなくて、
「一緒にやろ!一緒にあそぼ!おもいだそ!」
が心地よくて、すき。
みんなが自分の中に埋めてきた才能の石像を掘り出したら、それぞれの役割で、圧倒的にすてきなものが生み出される。
そこに、どれくらいやってきた?とか誰に評価された?とか、ほんとに関係ない世界。
自分の嗅覚信じよ。
なんとなくやりたい、信じよ。
意味がわからなくてもやりたいこと。
目の前のひとつをやるだけで、ここまでの時代と、ここまでの経験でつくられた、何かに譲った自分の力を取り戻していける。